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今日はお花の仕入れの日

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秋のお花が綺麗に咲き誇って来たのに明日から秋雨と台風が我が東海地方にやって来そうです 明日金曜教室が終わったら花苗の非難とテラコッタのギャザリングを全部非難します 

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シャンデリアは今が一番綺麗です バックにユーポルビアダイヤモントダストが幻想的です 

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ドリコスはお花も綺麗な紫 豆ももっと綺麗な紫です 私の友人が去年進めてくれたドリコス今年も綺麗に咲きました 

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最近出会ったハート型のテラコッタこれに何を植えたら一番綺麗に魅せる事が出来るかと思いながらもう14日間が過ぎました 明日弟子の日原さんに植えてもらう予定です 今日は朝花苗の管理が済むと先ずは愛知県大口町の知り合いの花屋さんに招待状を置きにそのまま岐阜県各務原市のオフリールさんに寄ったけど休日でした 岐阜市の浅野園芸でIFEXの打ち合わせ今年は大きなウェディングケーキを会場で作ります そして愛知県一宮市の角田ナーセリーでお花の仕入れ丁度重行ナーセリーの佐藤くんと会う明日教室に来ると言ってました 続いて関根園芸で仕入れ 尾張園芸は気に入ったものが無かったから愛知県蟹江町の戸谷園芸でプレクトランサスを仕入れて東名阪で帰ってきました 明日は雨模様ですが私の教室に休みはありません 

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今日の映画は「アラビアのロレンス」 私の中でもっとも尊敬する軍人元帥海軍大将東郷平八郎 「バロン西」こと西竹一中佐 トーマス・エドワーズ・ロレンス臨時陸軍中尉 その実話にもとずいた映画です  

Lawrence

.E.ロレンスはアイルランド/イングランド系ジェントリーの庶子としてウェールズで生まれた。中東への縁は、大英博物館のカルケミッシュへの学術調査隊に雇われたことから始まる。

アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia:Lawrence, Thomas Edward Brevet Colnel, later added with Shaw ; (1888-1935)

ロレンスは第1次大戦勃発とともに、イギリス陸軍情報部員となった。その後の活躍もその職掌の範囲である。またアラブ軍を指揮したのはメッカ太守の長男ファイサルであり、ロレンスではない。またアラブ軍単独でトルコ軍に抗することなどは、人口の点で考えられない。アラブ軍は多くて1000人を越えることはない。また正確に言えばロレンスの行為は戦時国際法違反である。

すなわち戦時国際法が適用になる戦争で私服の兵士を雇用してはいけないし、いわんや私服の情報部員が戦闘行為に参加しては、それは単なる殺人にすぎない。ロレンスはベドウィンの服を着るのではなく、イギリス陸軍の制服を着用すべきだった。

トルコ軍は、イギリスの病院船に発砲することなく、また出来る範囲では捕虜の処遇も良好で、国際法を遵守したフェアな戦い振りだった。対するイギリス軍は戦況の不利を原因として数多くの違反を繰り返しており、これもその一つである。日露戦争でロシアの暴動をあおった明石元次郎が直接、私服を着てペテルスブルグの街頭にたちデモ隊を扇動し、警察・コサックをテロにかけるようなものである。

また戦後の批判をおそれてロレンスの身分を転々と変えていることに注意すべきだ。イギリス軍としてロレンスの行為を正式認知できないのはそこにある。

またメッカ太守ファイサルは、ベドウィン族の族長であるが、定住したアラブ人とは交流があったわけではない。また当時オスマン帝国の首長の呼称はカリフであり、イスラム教徒にとっては、世俗上は君主としなければならない地位にあった。すなわち、ファイサルの擁立自体、トルコとの苦戦から生まれた苦肉のアイデアである。

このやり方をトルコ側からも見て欲しい。トルコのアラビア支配は決して、暴虐なものではなかった。戦争によりメッカ巡礼者が減少し収入が減った、メッカ太守ファイサルらしか、トルコに敵対するものはいなかった。イギリス側からみた一方的な見方、文明で劣後したトルコによる支配から解放するためには何をしても良い、は誤りである。

戦後、マクマホン書簡など、アラブ独立の約束とみられる空手形もあり議会でも追求され政府答弁も苦し紛れとなった。根本原因は第1次大戦前のイギリス自由党のトルコ蔑視にあり、トルコが中央同盟に組したのもそのためである。イギリスは伝統的友好国を切り捨てる時不必要な行動を伴うことがある。これはその好例だろう。しかし反省できるのもイギリス人でチャーチルは戦後、ロレンスからアラビアとトルコを徹底的に研究した。第2次大戦でついにトルコを中立とさせたのは、その成果かもしれない。

ロレンス自身のアラビアでの努力はやはり賞賛に値する。つまり、問題はこれを命令したイギリス外務省だろう。

ロレンスは随員の資格でパリ講和会議に参加した。その後軍の援助を得て、アラブ問題研究所を開設、チャーチルやウェーベルも加わった。その後は奇矯な行動が目立ったが出版活動やロビーイストとして活躍した。1935年交通事故により死亡。

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